夢想家

夢の続き

どこにもいないから、探すというか、作ってる

自分探しの旅ってあるじゃないですか、あれって意味あるんですかね?なんというか、自分って旅先にいるんですか?っていう。一人旅はいいよ、自由だし、開放的だし。確かに無限に時間はあるから、思索にふける時間はあまるくらいあると思う。ただ、それで色々考えたところで自分って見つかるのかなって思う。個人的には、自分探しの旅で見つかるのは美味しい地酒ぐらいなものだと思う。それとご当地キティちゃん。これは見つかる。探さなくても無理やり視界に入れてくるぐらいに見つかる。でも自分なんて見つからなそう。

てかそもそも自分なんてどっかにいるんですかね。自分なんて、ただのイメージであって、なにか固体的なものがあるとは思えない。どちらかというと、限りなく気体に近い流動的なもので、捕まえようとしても、スルりと抜けられてしまいそうな感覚がある。伝わるかな?まあいいや。過去の積み重ねとしての自分がいて、確かにそれは紛れもなく自分ではあるんだけど、だからと言って未来の自分を表しているわけでは無くて、更に言えば今の自分すらその枠組みから完全に自由な存在な気がする。未来の自分は別に過去の延長線上にあるのではなくて、というかそもそも過去すらも連続な線ではなく不連続の繰り返しなんじゃないかとまで思っている。いや不連続の繰り返しというか、無数の点があって、それを回帰分析するみたいに近似できる線があるけど、あくまで近似してるだけみたいな。その程度な気がする。

そんなわけで、自分なんてどんなに探しても見つからないと思うんですよ。ないものを探しても見つかりっこないという理屈。だから自分探しの旅なんてするもんじゃないですね。

となると、自分は探すのではなく、作る方がいいんじゃないかと思う。さっきもあったように、別に自分の未来を自分の過去からのつながりと切り離しても大丈夫だと思う。一貫性なんていらんでしょ。時間はすべてを変えるのだから。蛇足だけど、一貫性があることが正しい理論って意味わからんくない?一貫性があった方がいいっていうのは、他の人が予測しやすいぐらいしかメリットがないような気がします。だって状況に臨機応変に対応することの方が何かに固執することよりもはるかに大切だし、判断基準自体も変わってくることの方が多いように思える。一貫性がある方がいいなら永遠に狩猟採集生活を送っていてください。話がそれました。自分がどういう風になるかっていうのは、過去にどんな人間だったかよりも、現在は未来にどうなりたいと思っているのかが重要な気がするのです。そうすると、多少無理やりでも新しい姿を具体的にイメージして、過去にとらわれずに冒険的に挑戦していくことが大事だと思う今日この頃です。より早く成長するためには高い負荷をかけたほうがいい理論と同じ感じ。過去を気にしてしまうのはしょうがないとは思う。コンコルド効果とかもあるじゃん。過去の投資が大きいとやめられないみたいな心理的効果のやつ。それでもコンコルドは製造を止める方が合理的なのと同じで、過去の自分は過去と切り捨てて未来の自分を作っていくことが大切なんだなあと思っています。そしたら、自分が望む自分に近づけるんじゃないかと思ったりしてる。

自己啓発本みたいな記事になってしまった。では。

p.s.

未来になりたい自分はプリキュアなんですがなれますか?