夢想家

夢の続き

持っている

家で家族とテレビを観ることがある。ドラマや映画、ニュースとかも観ることがあるが、バラエティとかも観る。バラエティ番組の特にロケとかだと、ちょっとなかなか起こらないことや、すごいことがたまたま起こることがある。テレビ番組だから、当然それを大きく扱って、これでもかというほど強調する。すると、僕の母親や兄が、その状況を作った芸能人に対して、「(運を)持ってるね」とか言うことが多い。それを聞くと毎回なんかムカついてしまう。もちろん、そんなことで家族に突っかかって喧嘩を売ることに大して意味はないから、何も言わないで沈黙に徹する訳だが。まあ確かに言いたいことはわかる。奇跡的なことに出くわしているのだから、運がいいという捉え方をするのは必ずしもおかしいことではない。だけど、本当に「持っている」からその場に居合わせることができたのか。その奇跡を起こすことができたのか。いや違うやろと思う。それは運がいいからではない。その人が色んな事をしようと、とにかくやる試行回数を増やして、どうやれば面白いことが起きるのか必死で考えて、来たチャンスを血眼になってものにしてるだけだ。そこには周りには悟られないような血の滲むような努力があるはずだ。ただ待ってるのでは決してない。その必死の努力を、一番よく見せようと莫大な数の人がうまく撮って編集して、視聴者である自分たちが目にしてるわけだ。何時間も必死で撮影して、そのうちのほんの一部が電波で流れていているのを観せてもらってるに過ぎない。ちょっと想像すれば、それが分かるはずだ。それを何で「やっぱり成功してる芸能人は持ってるね」という言葉だけで終わらせることができるのか。自分は何もせずに、大して努力もせずに惰性で生きているのに、努力している人を観て、たまたま運がいいからすごいことが起きているとしゃあしゃあと言えるのか、おかしいだろ。ちょっとは想像力を持ってくれ。そんな風に思ってます。それとムカつくついでにもう一つ。自分は割と好奇心が強いほうなので、新しいことをよくやるわけです。たまに他の人から見たらよくわかんないこともやってたりする。すると兄が「できるわけないじゃん、バカかよ」とか偉そうに口出しをしてくる。できるかどうかなんて、実際にやってみなければわからないし、やる前からできないと決めつけることには何の意味もない。しかも、何で「できない」という発想になるのかが分からない。別にそれでプロになろうとしてるわけじゃない。そりゃそれで生計を立てるとなったらそんな簡単にはいかないだろう。でも別にお金を稼ごうとしているわけではない。単に、それをやること自体を楽しもうとしているのである。その結果としての質は割とどうでもいいことだ。別に音楽を作るからと言って、B’zとかMr.Childrenになろうとしているわけではない。矢沢永吉にも米津玄師にもなろうとしているわけではない。ただのよくいる音楽が趣味の人になるだけだ。プロゲーマーと肩を並べるくらいになれないからってゲームをしない理由にはならない。それと同じである。

何で人は何かを始めたり、努力している人の足を引っ張ろうとするのだろうか。色んな人がいて、いろんなものが溢れてる社会の方が面白いと思う。誰かがよくわかんないことに時間とお金を使っていたとしても、自分の時間もお金も無くなることはない。むしろ面白い話やコンテンツが周りに増えるのだから、歓迎すべきことのはずである。親だったら心配する気持ちも分からなくもないが。

みんないろいろ失敗すればいいと思ってる。才能があるかないかなんて、やってみなきゃわからないんだから、とりあえずやってみようよ。今まで、Twitterとかいうのにあり得ん長い時間を使ってきたのだが、そこで学んだとても大切なことがある。それは、「失敗した話や嫌な思いをした話はそこそこ面白くて、それを他の人に話したり、ツイートすると受ける」ということだ。受験界隈出身の人にはコンテンツ力という言葉が懐かしいのではないだろうか。このコンテンツ力というのは、楽しく生きるにはとても大切なんじゃないかと思ってる。この考えさえあれば、失敗しても、ネガティブなことが起きても、むしろ話のネタが増えてうれしいことに変わるのである。挑戦したら、成功したらそれでいいし、失敗したらネタにすればいい。どう転んでもメリットしかない。そんな感じで少年の心をもっていろんなことに手を出したいなと思ってます。中途半端な感じになったら?。それは知らん。

p.s.

最初にチーズのピザにハチミツかけた人凄いよね。世紀の発見でしょ。新しく賞設立するレベル。ノーベルハチミツ賞とか。