夢想家

夢の続き

天才と天才になれなかった人たち

今日響という映画を観た。平手友梨奈が主人公の映画だ。ネタバレしないようにこれを話題に少し思ったことを書きます。

この話は、天才だが不器用な主人公と、天才を見つけてしまった人と、天才になれずに、でも努力でなんとかしようと必死にもがいている凡人達の話だ。漫画が原作である関係で、二時間では収まらなかったのか、少し薄くなってしまったが、やはり今回の話で注目するのは、主人公ではなく、天才になれなかった凡人達だ。その凡人達は、自分では努力していて、そのおかげで一定の成果は得ているものの、自分で天才にはかなわないことを心の底から痛感していて、でも認めたくなくて、そんな人たちだ。でもこれはこの作品の中だけにいる人ではなくて、世の中のほとんどの人たちだと思う。天才が存在するのは、天才じゃない99%の人がいるからだ。それは曲げようがない事実で変えることはできない。だから、世の中のほとんどの人は苦しむことになる。それもまた、ゆるぎない事実である。

他でもない自分もそうだ。自分には才能はない。何をやっても、自分よりはるかに優れた才能を持っている人がいる。それはある種当たり前だ。何かに本気で取り組めば取り組む程、自分と自分以外との差を目に見えて実感する。そして本気であるからこそ、とめどない悔しさに苛まれる。これの繰り返しだ。いつしか、それが嫌で、本気で何かに取り組むことを避けるようになった。自分の才能の無さに気が付きたくないから、自分で自分に言い訳を作るようになった。どこかで手を抜いて、全力を出さないようにしていた。それがいいことではないと自分でも分かっていて、でも自分の凡才さに目をつぶりたくて自然とやってしまう。そして、努力している凡人にも負ける。それも当然なことだ。それをみて、また見なかったことにする。もうそんなことの繰り返しだ。天才に憧れて、でも天才になることはできない凡人の宿命なのかもしれない。

一方で、天才もまた天才で苦しんでいるのだろう。今回の映画でもそうだ。そして先日引退を発表した、”ぼくのりりっくのぼうよみ”もそうだ。彼は自分の才能が嫌になったと言っていた。こんなことになるなら、才能なんてなければよかったと言った。その才能は、凡人達がどんなに望んでも手に入れることができなかったものだ。そんな才能を持っている人に、才能なんてなければよかったなんて言わせてしまうのは、たまらなく悲しい。もったいないとか、せっかくの才能を捨てるべきではないとか、そういう感情ではなくて、ただそう言わざるを得なくなってしまったことがたまらなく悲しいと感じてしまった。

結局、だれもが自分と違う人に嫉妬してないものねだりをしてしまうのではないかもしれない。それでも、必死に生きていかなくてはならない。だから明日からも、また自分と向き合いながら、自分と一緒にもがいていかなきゃいけないのだと再確認した。今日はもうそんな明日のために寝ようかな。

では